N.E.blood 21 vol.78 吉賀伸展

2022年6月1日(水)~ 7月18日(月) 会場:リアス・アーク美術館 圏域ギャラリー (宮城県気仙沼市)

【展覧会パンフレットより抜粋】

 

【N.E.blood 21】は精力的に制作、発表活動を行う東北・北海道在住若手作家を紹介するシリーズ企画である。美術館とアーティストとの新しい関係を模索しつつ、作家同士のネットワーク形成を念頭に置き展覧会を開催している。2002年からスタートした本シリーズは20年目、通算78回を数える。本展では山形県山形市在住の吉賀伸(よしか・しん)を紹介する。

 1976年山口県に生まれた吉賀は2003年に東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。2009年より東北芸術工科大学にて教鞭を執っている。これまで多数の個展・グループ展等において陶彫刻作品を発表し、2002年第3回日本ユーモア陶彫展'02大賞をはじめ、2005年第69回新制作展新作家賞、2007年五島記念文化賞美術新人賞を受賞するなど、高い評価を得ている。

 吉賀は山形への移住を機に東北の自然を陶彫刻のモチーフの基に据えている。陶彫刻は自然由来の土と水を用いた造形と乾燥の後に、焼成を経て完成に至る立体彫刻である。

 水と練ること粘土として可塑性を得た土。作家の手で形作られ命が吹き込まれた土。さらに高温焼成で鉱化し姿形は固定され、ついにそれは岩石や鉱物に近い強度と硬さを得る。何段階にも及ぶ工程の中で土は様態を変え、最後にその組成さえも大きく変化し、土の種類や焼成方法などによって多様な表情や質感を見せる。それはまるで地球の自然活動や原始的な地殻活動を凝縮したようなダイナミズムを感じさせる。

 作家は土の状態を見極め、双方の間に生まれる引力と斥力を巧みにコントロールしながら呼吸を合わせるように丹念に向き合う。甚大な熱量が作用する焼成で、土は火山のマグマのように赤く熔け、最後の変貌を遂げる。窯内の現象は人が足を踏み入れることのできない領域である。

 陶器の制作における作家と土の関係は、さながら人と自然との関係性である。自然の摂理に従い、慎ましく暮らすことで調和のとれた里山は生まれる。しかし、自然は次々に表情を変え、時に人の力の及ばぬ神域の猛威を揮う。人が一方的にコントローすることは不可能であり、地球で生きる私たちは常に意識し、自然現象を受け入れる覚悟を持たなくてはならない。

 吉賀は雄大な自然の美を視覚的な「形象」として提示しつつ、人と自然との関係性を制作活動そのものによって体現しているかのようである。作品は素材の本質を背景としながら、人の自然に対する畏敬の念を表すかのように威厳に満ち、ピンと張りつめた緊張感と圧倒的な存在感を放っている。

 

リアス・アーク美術館 岡野 志龍

 

 

 

変容する態、もしくは相 深井聡一郎 藤原彩人 吉賀伸

2016年5月7日(土)~ 5月22日(日) 会場:スペース・S (東京都三鷹市)

【案内状より抜粋】

 

 深井聡一郎は、「彫刻」と「置物」など曖昧でありながらも社会的通念としては確かに存在する区分に対して、それを成立させる到る人の意識を問い直してきた。また藤原彩人は、具象形態である人体を手がけることで、現代の人間の心性に加えて、存在することや佇まいといった、ものごとがそこに「ある/いる」ことへの問いかけを行う。そして吉賀伸は、現実と人の記憶との間で揺れ動く形のない景色を題材に据えて、ものごとの自明性への疑義と存在が「存在」として認識されることの不確かさを提示する。

 これら三人の作品は「彫刻」として評されるが、用いる制作手法は一般的な彫刻技法では馴染みのない、陶の本焼成である。その意味で「陶芸」側に立つと「オブジェ」と呼ぶこともできる。

 そもそも陶芸でいうところの「オブジェ」は、美術用語のオブジェ本来の意味とは異なり、やきものでありながら器物ではない「奇妙」な作品に対する呼称である。その呼称の起源をたどると、オブジェ焼きと揶揄された戦後の陶による彫刻的形態に行き着く。もっとも造形史を繙くと、陶による「彫刻/置物」的造形は、土偶や埴輪など原始・古代においてすでに高度に存在し、現代に至るまで歴史を通じて作り続けられてきた。しかしオブジェ焼きが問題となったのは、そこに同時代の「美術」様式からの借用とそれを通じて器物からの脱却を図るという近代の美術制度が根底にあったためである。三人の仕事は、一見するとオブジェ焼きの延長上に位置するように思われる。しかしその制作態度は、かつての前衛陶芸のように器物制作から脱却するために彫刻的形態のオブジェへと足を踏み出したものではなく、また多くの現代美術家のように様々な表現媒体の一つとして陶を用いるということでもない。この三人にとって陶で彫刻を作ることは、世界の成り立ちを認識していくための出発点なのである。

 そもそも作品とは、制作に関わる行為や作業工程の総体である。彫刻的形態を獲得するだけならば、木、石、ブロンズ、鉄、FRP、土など様々な素材でも可能である。しかし、表面的な形態の類似性に対して、素材とそれを扱う手順が異なれば、当然ながら再現できないことがでてくる。このような他では再現できないものこそが作品固有の技術であり、その意味で固有の技術過程を通じてしか把握できない世界観は存在する。

 例えば、陶の作品には、幾重もの時間が内在している。というのも鉱物の一種である粘土は、生成されるまでにすでに一千万年という時間を背負い、焼成によってその時間性が人為的に操作され、変容される。さらに陶になることで、物質としての永続性を獲得する。加えて、粘土を積む行為における物理的作業においても時間が痕跡として残される。こうした「時間」が作者のイメージや作品主題との相関関係も生み出すことになる。ここで例として挙げた時間性は、陶を成立させる一要件でしかないが、物質としての重さ、可塑性、内部空間、釉、自然性などもまた、制作意思や技術それ自体を導く手がかりとなることは、三人の仕事からも窺える。そして一般的な陶による彫刻(テラコッタ)とは異なり、三人のように焼成を前提とするのであれば、これら陶制作上の要件は、制約となる場合も含めて作家の制作行為を強く規定することになる。また、本焼成は時間の人為的操作というだけでなく、作者と素材との間に生じる強固な身体的結合を解体させるための場でもある。

 こうした陶にまつわる総体を自己に内在化させつつ、イメージを作品固有の技術を通じて構造化していく過程に、作者が世界を認識するための手がかりが潜んでいる。「彫刻」を、例えば彫ることと刻むことという行為や技術において理解してみるように、モチーフや概念、ジャンル意識などに回収されることから距離をとることで、はじめて陶で彫刻を作る三人の仕事は見えてくるのであろう。

 

 2016年4月1日

                                                    大長 智広

                                           愛知県陶磁美術館 学芸員

 

 

 

 

個展「UNFORMED SENSES」

2014年8月6日(水)~ 8月18日(月) 会場:日本橋髙島屋美術画廊X (東京都中央区日本橋)

【案内状より抜粋】 

 

吉賀伸の近年の仕事は、不確かな形を追い求め、ますます大きくなってきた。それは、表現者としての本質的な部分からきているのだろう。つまり、とらえきれないものをつくりつづけることで、自らの情念を動かす、その何かに迫るという方法である。

今回出品される大作のモチーフは、火と雲である。地を走る炎、夏の空にわき起こる入道雲、あるいは雷雲。はたしてどれも決まった形があるようで、実際にはない。具体的なものを表現してはいるのだけれど、そこにはイメージが存在するだけである。それら作品は影のようなものであり、彫刻と呼ばれるもの、あるいは美術の本来的な姿でもある。

それぞれの作品は、多くのパーツからなる。いくつものパーツが全体を作り上げる。これは吉賀の術が陶によるからだ。土をこね始めてから焼き上がりまで、いくつもの手順があり、職人的な技術も必要で、それゆえ時間がかかり、何より他人にゆだねる部分がない。彫刻だとそうはいかない。たとえば、伝統的だと考えられるブロンズ像にしても、その鋳造を作家本人がおこなうことはない。

すべてが自らの手によるということは、今日の美術を巡る状況と一線を画すものであるかもしれない。コンピューターなどの機械がその表現の多くを担う美術が、今日の主流のようであるけれども、それは一歩間違えれば影が影をつくっているようなものになる。新しい古いということではなく、また良いとか悪いとかの問題でもなく、何に根ざすのか、ということを問えば、そういうことだ。

陶であるけれど、吉賀の作品は彫刻的だ。このモニュメンタルな大きさは、彫刻家の思考であり、志向である。この量塊が私たちに問いかける、あるいは迫ってくる、その力こそが、彫刻のもつ魅力である。妖しい輝きだけが、陶という出自を漂わせている。

 

                                                    寺口 淳治

                                            広島市現代美術館 副館長

 

 

 

 

個展「吉賀伸展」

2013年4月27(土)~ 5月12日(日) 会場:スペース・S (東京都三鷹市)

【案内状より抜粋】

風景についての覚書 ー 吉賀伸の新作について

春の景色。水辺の桜並木、ピンクに染まる山々、たなびく霞。古くから詩に詠われるように、誰もがそのような景色を身体の中にもっている。春だけではない、特に日本は四季折々の印象に変化が大きく、そのような景色を見ながら時の移ろいを感じている。桜を見て春を知り、もっと具体的に別れの季節とか新たな旅立ちのようなことを思い起こし、より個人的な思い出に結びつけ、感傷的になって涙をながす人もいる。
しかし誰もがもっているはずの風景は、確固たる形や色をもつわけではない。眼前の風景が孕む深遠なるイメージに気づいたのは、古今東西、芸術家と呼ばれる人だけである。私たちは、詩や絵画、今日では写真や映像によって風景を再発見しているにすぎない。
吉賀さんはこれまで、人体にはじまり、古代の遺物を連想させる巨大な土塊、磁器の美しい光沢によりながらも想像を絶するボリュームをもった、物語や風景をもとにした仕事を問うてきた。それらは焼成というプロセスが必要な陶土による彫刻である。そのプロセスは必然的に偶然が入り込み、その仕切り直しを想定しながらの制作となる。しかし偶然であるのだから、思うようにいかないのは当然である。それをどのように仕上げるか、自らのイメージをスキルとテクニックによって導くその手法は、伝統的なものでありながらもより革新的なものにならざるを得ない。
今回の大作は「棚田」がテーマだという。アジアの原初的風景を陶によって作り上げるわけだが、これまでの仕事ではっきりしているように、たいへん自覚的な人であり、その造形も決して思いつきではできないものである。その風景の奥底に沈む彼のイメージは、私たちにいったい何を与えてくれるのか。
風景そのものを題材とする人だから、いつかは地球を彫刻するようなことをやってしまうのではないかと、夢見るように予感し、期待しはじめている。


寺口 淳治
広島市現代美術館 副館長